リ サ イ タ ル

 


 この曲は、舞踊家花柳鶴寿賀師の委嘱によリ、木下勝彦氏が作詞、中島勝祐氏が、平成10=1998年に作曲Lました。歌詞は、「七小町」の屏風絵を描いた葛飾北斎の夢枕に小野小町が立って、一言垂れる、といった作詞者自身の想像を発端としています。
 小野小町は、平安前期の歌人で、小野篁の子息・出羽郡司小野良真の息女とも言われています。『古今和歌集』の序で、「近き世にその名きこえたる人」と論評された六歌仙の一人です。その歌は柔軟艶麗で、絶世の美人だったと伝えられますが、その生涯は謎に包まれておリ、数々の伝説があリます。
 そのうちの七つ、つまり「関寺小町」(百歳を越えた小町が七夕の夜、関寺の僧に歌の道を語リ、昔を追懐して舞う話)、「鸚鵡小町」(老いて零落した小町に帝が歌を送るが、小町は一字だけ替えて鸚鵡返しの返歌をしたという話)、「卒塔婆小町」(百歳の小町が乞食となり、卒塔婆の上に腰を下ろしていると、通りかかった旅の僧が咎めて、宗教問答をする話)、「通小町」(小町を信じ、恋の成就を夢見て百夜通いをした深草少将が、九十九日目に他界し、死後もその霊が小町の成仏を妨げる話)、「草子洗小町」(宮中の歌合で小町の相手となつた大伴黒主が、小町の歌を盗み聞いて万葉の草子に書き込み、当日その歌を古歌の盗作と非難するが、小町は草子の墨を洗い流して疑いを晴らした話)、「雨乞小町」(神泉苑で雨乞いのために小町が歌を詠んで、効を奏した話)、「清水小町」(老残の小町に在原業平が「仏に帰依せよ」と諭したのを観音の教えと悟って、流浪の末、陸奥の玉造小野の里に辿リ着いて絶命した話)、を纏めたのが能の「七小町」で、他の芸能にも影響を与えています。
 北斎の「七小町」も、華やかな小町が次第に老いていく様子を七図に描いています。
 葛飾北斎(1760~1849)は、洋画を含むさまざまな画法を学び、優れた描写カと大胆な構成の様式を確立しました。版画では「富嶽三十六景」などの風景画や花鳥画、肉筆画では美人画や武者絵に傑作があリます。この「七小町」は、八曲一隻の屏風絵で、肉筆画が長野県の小布施の「北斎館」に所蔵されています。江戸つ子の北斎の作品が小布施にある理由は、彼と交遊のあった豪商で陽明学者の高井鴻山(1806~38)が、信濃小布施村の出身だったからです。鴻山は書画もよくし、晩年の北斎を、浅草から避暑に招いていました。北斎が最初に小布施に訪れたのは84歳の時だったそうで す。